創作というのは「盆栽」や「おじさんバンド」のようなものになるしか無いのかもしれない。市場の論理はぼくたちから創作の本質的なよろこびである自己満足を奪ってしまった。何かを作れば、常にそれって金になるの、数字(再生回数やいいね)になるの、と、常に自己満足とは対極の、数値による評価基準の外在化に晒されてきた。だが数の論理の中で戦う限り人間の敗北は必至である。創作から自己満足を取り戻す必要がある。

ぼくたちは「売れないバンドマン」をバカにし始めた頃から何か大事なものを失い始めていたのではないか。売れないバンドマンのような存在こそが表現の多様性を支えていたのであって、こういう存在を排除し、あらゆるクリエイターが都合よく表現の最大公約数を取り続けた結果、文化そのものがやせ細っていったのではないのか。コモディティ化による文化そのものの「モデル崩壊」は何もAIによってはじめて起こり始めたわけじゃない。人間だって「売れる、売れない」みたいなことばかり考えて文化のモデル崩壊に加担してきたじゃないか。


中学生の時にバンプとアジカンをほぼ同時期に好きになって聴き始めたんだが、年を取って改めて聴いてみるとこの両バンドには、あくまで自分の中の捉え方として相当違いがある。バンプは、これを言ったら好きな人には絶対怒られるだろうけど、「人生のある期間(おもに中2)に聴くと異様な刺さり方をするバンド」という印象があって、実際自分もそれでめちゃくちゃハマった。だがある程度年を取ると不思議なものでバンプの歌詞が全く刺さらなくなる。対してアジカンは、昔も今も「変わらず良いな」と思う。バンプほど熱狂はしないけど、ずっと一定して良いなと思い続けている。これは常に考えている創作の一貫性の問題とつながっていると思う。アジカンはジャケットのイラストがずっと中村佑介なことからも、その辺りは相当イメージがコントロールされているのかもしれない。中村佑介はすさまじい作家で、マジでずっと絵柄が変わらない。ある程度長期にわたって何かを作っている人間であれば、「ずっと変わらずにいる」ことがどれほどすごいことかわかる。


米津玄師がたまにインタビューで「自分はポップソングを作っているんだ」って答えてることがあるけど、ああいうエクスキューズをわざわざミュージシャンがしなければならないこと自体違和感を感じる。「自分が作りたいものを作っている」とは言えず、常に「マーケットに求められているものを作っているんですよ」と言わなければならない空気感があるのだろうか。あのレベルまで行けばそんな言い訳必要ある?とも思うのだが。