作曲の方法として曲先か詞先かというものがある。要はメロディを先に作るのか、歌詞を先に書くかの違いである。ポップスでは曲先が主流らしいが、sunoなど、AIによる作曲では詞先が主流になって逆転しているのがおもしろい。素人考えではあるけど、結局の所これってどちらが先とか無く「同時」じゃない?と思ってしまう。どちらかを先に作らなければいけないというのは分業することを前提にしている気がする。そう考えると、AIを使って個人の効率を最大化し、分業を極限まで減らすことは、創作の新たな可能性を開くかもしれない。
しかし音のような抽象的なものを自然言語でコントロールするというのはどうにも気持ちが悪い。sunoで作られた曲のプロンプトを見てみると、"smooth"とか"emotional"とか抽象的な単語の羅列である。いや、その抽象的な概念を音を使ってどう表現するのか考えるのがミュージシャンじゃないの?と思ってしまう。そのプロセスを機械に丸投げするならそれはもはや音楽を作る醍醐味を放棄しているのであって、何が楽しくやっているのかよくわからなくなる。ぼくは音楽に関しては素人だけど、これは色や形のような造形の話にも近い。自然言語で全てが説明できるのであれば、そもそも音や色のような抽象概念を持ち出す必要性すら無い。
生成AI、「いろいろ試した結果全部使わない」みたいな結論になりそう。単純にどの程度ワークフローに組み込むか塩梅を探るのが面倒になった。全てを自動化しようと思えばできないことはないのかもしれないけど、すべての意思決定に精度の低いノイズが紛れ込む可能性を考慮するともはやそれほど効率的ともいえないのかもしれない。創作は極限まで効率化を求めた結果、効率化を離れて盆栽化すると思っている。つまり「自分がアウトプットにどの程度関与したか」が大事になるのだが、怠惰への欲求というのはおそろしいもので、自動化の誘惑にあらがう事ができない。つまりそれは底なし沼で、1つ自動化すると99自動化したくなる。そうなった時「残りの1%自分が意思決定していればいい。」と本当に思えるだろうか?実際にはここまでくると残りの1%も自分の意思かどうか疑わしくなってくる。
ぼくの発言は常に攻撃性を内包しているんだけど、普段は表面的には攻撃的に見えないような文章に抑制されている。だが酒に酔っぱらうと、すべてのタガが外れて文面に攻撃性が現れる(要するにバカだのなんだの言い始める)これ自体非常に良くないことだし常に反省しているんだけど、こういうツイートの方が普段の抑制されたツイートより反応があったりする。ぼくは格闘技の面白さが昔からよくわからないんだけど、人間は他人の攻撃性を見たいと思っているのかもしれない。そうやって「攻撃的な発言が伸びる」ことを自覚し始めた瞬間、数字を求めて品性すら失っていく。