AIで作ろうが美大を出てなかろうが良いものは良いわけで、なぜそんなに形式や権威にこだわるのかよくわからない。上辺のラベルだけで物事を判断する癖は本当にやめた方がいいと思う。
しかしMBTIにしろ本当にラベリングが好きだなと思う。ラベリングというのは情報コスト削減という点では合理性があるが、この合理性はルッキズムみたいな問題とも地続きになっている。要は目の前にいる人間がどういう人間か、情報を得て判断することが面倒なので見た目で判断してしまえばいいという発想だ。MBTIの流行とルッキズムの流行というのは実は情報、それによって発生する判断のコストの削減という点でいえば同じ話だ。結局はこれも「コスパ」問題なのだ。
コスパよく生きようとするとそうやってあらゆる点で物事を判断する能力自体が奪われていく。倍速で映画を見ていたら映画の良し悪しを判断する力が身につかないから、何百本見たところでほとんど意味が無い。そもそも映画は単なる「情報」ではないという当たり前のことに気づくことすらできない。
何かを見てその「情報」を確認できればいいという発想は、たとえばゴッホの「ひまわり」を見て、「ひまわりが描かれている」という情報だけを受け取るということで、そんなことに何の意味があるのだろうか。
こうして情報だけを淡々と処理するのは人間の営みであるとは到底言えず、どちらかと言えばコンピューターに近い。こういう人間が増えると、そもそもAIが人間に近づいているのか、人間がAIに近づいているのかわからなくなる。