英語を学習するときにまず自分でざっと英文を書いて、それを自動翻訳に入れてみる。そうすると英文に違和感があったり間違いがあるとその違和感をそのまま翻訳時に違和感のある翻訳として出してくれるので間違いに気づきやすいという利点があったのだが、最近の翻訳はどんなに崩れた英文でもその意味を全て汲み取って再構成、つまり「生成」してしまうため、この方法を使って自分の間違いに気付くことができなくなってしまった。


昔バンドのプロデューサーと話したときに「音楽で売れるなんて宝くじを掴むようなものだ」と言っていた。それは正しいと思う。音楽の世界、特にポップスは著しくコモディティ化しているからだ。だがそれでもミュージシャンになりたいと志す人間はいるし、そういう人にも少ないながらチャンスはある。

人間が生み出す供給には、人が育ち、学び、作るのに要する時間という物理的な限界がある。そのスピード感の中でなら、たとえ競争が激しくてもぼくたちは希望を失わず夢を見ることができる。だがAIによる生成は、この物理的な制約を持たない。数十倍、数百倍の速度でコモディティ化が進めば、人々はその宝くじを引くこと自体をやめてしまうのではないだろうか。


「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」という、10年前のドラマを見ているのだが、恋愛における多角関係を複雑化してドラマを生み出そうとした結果、登場人物が全員人格破綻者に見えてしまう。こういう制作者の意図が先行して見える作品はやはり違和感を感じる。フィクションにおいてはキャラクターが操り人形であることは事実なのだが、その操っている糸はなるべく見せないようにしてほしいとは思う。

主人公の2人は「清貧」を絵に描いたような2人なのだが、かれらの善性を際立たせるためなのか、あり得ないくらい意地悪な人間が出てくるのも非常に違和感がある。バスの中で赤ちゃんの泣き声にキレて喧嘩始める大人とか、少なくともぼくは一度も見たことがない。勧善懲悪を主題としたドラマなら悪は倒されるものであって、それは戦隊ヒーローものとか時代劇とか、そういうジャンルとして見ればいいから特に違和感を感じないのだが、恋愛ドラマにあそこまで不自然に意地悪な人間が必要なのだろうか。


薄々感づいていたことではあるけど、ぼくはどう考えてもビジュアルを扱うよりも言葉を扱う方に長けている。だが言葉を扱える能力というのは、子どもの頃から持っていると確実に大人に嫌われる。その感覚がぼくの中にずっと呪いとしてあって、ある種逆張りのような形で美術大学を目指し始めたのかもしれない。「よく喋る子ども」が大人から嫌われる問題というのは、世の中には一定数自分がコントロール可能であると見なした相手しか愛せないという歪みを抱えている人間がいて、ぼくが小中学校で出会った教師や周囲の大人にはたまたまそういうタイプが多かったということだろう。これはアイドルやアニメのキャラしか愛せない構造と似ているような気がするが、現時点ではあまり考えがまとまっていない。いずれにせよ言葉というのはコントロールから抜け出す武器になり得る。