アレックスカープがテクノロジカル・リパブリックで再三批判している、みんな自己保身のために綺麗事ばっかり言ってて何も本質的な議論ができないみたいなフラストレーションはSNS含め現代社会に対して感じる窮屈さの正体かもしれない。多様性みたいな話にしても、要は「全部多様で受け入れなきゃいけないよね」って空気感が作られると何も批判できない、批判すること自体が悪みたいな風潮が作られるし、昨今だともはや批判とかしてるやつは「冷笑」みたいな雰囲気すらある。多様性のような思考停止ワードがもはやその言葉と真逆の窮屈さを生んでいる。


ぼくがネット上の「炎上」に全く関心が持てないのは、燃やしてる人たちにはなんの大義もなく、ただ単にSNS上でその瞬間話題になっててインプレッションが稼げそうな話題に飛びついているだけだからだ。だから炎上なんてものは一瞬で消費され忘れ去られる。これは批判とは全く違う性質のものだ。


自然言語でビジュアル表現の一貫性を維持するというのは想像以上に難しい。基本的に造形における思考というのは抽象的なもので、例えば物体をもう少し右側に寄せたいと思ったとき、自然言語で説明するなら「もっと右に寄せる」ないし、「1cm右に寄せる」ということになるのだろうが、実際何かを作るときにはそういう風に思考しない。自分の感覚で単にちょっとだけ右に移動するだけである。それは結果的に1cm右に寄せたことになるかのもしれないが、最初からそう考えているわけではない。それのあらゆる造形要素における積み重ねが個性のようなものになる。


結局は一貫性の問題に尽きる。AIでなんかいい感じのものが作れたとして、ではその次に作るもので一貫性を維持できるのか?という問題。毎回毎回作るものの造形、理念がバラバラだとそこに文脈が生まれない。それが機械的であるということそのものなのだ。あらゆる芸術はあるアーティストが別のアーティストに影響を受けたり、カウンターになったりして文脈を作ることで成り立っている。物理的な身体を持ち、生まれて死ぬということはある種の一貫性であって、そこには歴史があり、物語がある。生まれもしなければ死にもしない機械には物語や文脈を作ることができない。