フォトリアル、アニメの3DCGが、より効率化された形で代替されるというのはある程度想像できたシナリオだと思う。結局のところ、ああいった表現はもともと明らかな上位互換が存在するうえでの安価な代替物でしかないからだ。フォトリアルはいうまでもなく現実だし、アニメの3DCGの上位互換は手描きアニメである。これは言うと怒られるかもしれないけど、Pixar的なもともとが3DCGのものではなく、2Dの補助として3DCGが使われているという前提だが、手描きより3DCGの方が良いと思っている人ってあんまりいないと思う。手描きできるなら手描きの方が絶対に良いとみんな思ってるけど、人手不足とか工数の問題でCGを使わざるを得なくなっているというのが実際のところではないだろうか。ぼくはそもそも3DCGが既存の表現の代替物としてしかみなされないこと自体表現の可能性を狭めていると思っているからAIの台頭で3DCGならではの表現の模索に目が向くと良いなと思っている。
生成AIに限らずどんなツールを使おうが一貫性の問題というのは常につきまとうもので、結局は根底にある思想の問題だ。ぼくはSNSが流行し始めた頃にちょうど大学生だったので、その頃から思想がなく場当たり的にタイムラインの空気を読みながら作るものをコロコロ変えるクリエイターを批判してきたが、そういう人たちがAIという、まさに場当たり的にコロコロ生成結果を変えるものに代替されるというのはある種必然ではないだろうか。要はSNSでみんながやってたことを超高速で行うエージェントが現れたというだけの話だ。この点でテクノロジーの発展は一直線につながっている。SNSにしろAIにしろ人間の根本的な営みを極端な形で可視化、加速しているという側面があって、AIを藁人形にしている人たちは根本的な勘違いをしている気がする。
https://x.com/koguGameDev/status/2070806094981828775
3DCGは最終的なアウトプットにたどり着くために途方もないほどの作業工程が必要で、モデリング、テクスチャリング、リギング、アニメーションなど、それぞれのパートに専門家がいるくらいだ。だがどこまでいっても最終的なアウトプットが単にピクセルなのであれば、その面倒な過程を全て吹っ飛ばしてピクセルそのものを生成してしまえばいいのだというのはある種合理的にも見える。こうなるとこれまで培われた途中過程が空洞化し、3DCGは単なるカメラワークを作るだけの補助ツールに矮小化される。そこで3DCGの従来のワークフローが保てる優位性というのは「カスタマイズ性」つまり元のデータあることによって細かいパラメータをいじれるということくらいだろう。