ミドル・エイジクライシスの問題は、実は年齢とは関係なく、要は予測可能性に対する絶望の問題なのかなと思う。つまり飽きの問題。そして現代ではその予測は、なにも自分だけがやるわけじゃない。これだけ毎日SNSに大量のコンテンツが流れてくると、もはやあらゆることが予測されて先回りされている感覚になる。そうなると「やってもいないのに飽きる」という奇妙な現象が起こる。

「やってもいないのに飽きる」という現象は、人間の認知がマクロの縮約可能性とミクロの縮約不可能性を区別する回路を持っていない、という認知的なバグである。SNSで母集団の分布を見せられることは、自分の一回の試行の結果を知ることと別物なのに、脳はその区別にほとんど関心を払わず、両者をほぼ等価に処理してしまう。

単純な生成規則でも、そこから先の展開が原理的に予測不可能であり続けることが「生きている」システムの条件で、逆に規則から結果への写像が縮約可能(自分で先が読めてしまう)になった瞬間、それは「もう起こったこと」と同じ扱いになる。まだ起きていないのに、情報量的にはすでに消尽している。これは経験としては、死んでいないのに人生の残りの帰結を先取りして知ってしまっている、という奇妙な感覚のはずで、「絶望」と呼ぶにふさわしい。

「縮約可能なのはマクロだけであり、ミクロは依然として縮約不可能である」という論理的事実と、「マクロを見せられるとミクロまで縮約されたように感じてしまう」という現象的事実の、このギャップこそが「予測可能性の絶望」、つまりミドルエイジ・クライシスの正体なんじゃないか。

技術が発展し、あらゆることが学びやすくなり、これまでより短縮されたような人生を生きることで、今後この現象が若年層に現れるようになるというのは納得感がある。

余談だが、ぼくがバーに通ったり麻雀にハマったりしたのも、要はこの予測可能性にウンザリしてしまったからだ。バーに行けば毎回違った人が来るかもしれないし、麻雀は毎回違う配牌が来る。ちなみに麻雀は本当にヤバいもので、配牌、ツモ、リーチ、裏ドラ、カンドラなど、要所要所に報酬系を刺激する仕組みが盛り込まれている。麻雀は人間の報酬系をハックするという点で完成形に近いゲームだと思う。

この世の中には新しいものなどなく(つまり予測可能で)、すべては何かの組み合わせでしかないというのは、客観的な事実認識としては正しいのかもしれないが、それが単なる諦観のようなものになってしまっては、もはや自分で手を動かす意味など無い。こういった諦観に抗う方法は、「マクロの分布を見ても、それが自分のミクロな一回を代替する情報ではないということを、感覚のレベルで保持し続ける」ことであり、言い換えればそれは「自分にしかできないことがあると信じること」なのだ。


3DCGやコンピュータは単に絵筆より自分に向いてると思ったから使っているだけで、表現の本質というのはもっと抽象化された次元にある。 3DCGが死んだら表現ができないというのであれば、それはモデリングとかリギングとかなんとか、ひどく具体化された領域に囚われすぎている。もっとひどい場合は例えば「Blender」という固有名そのものに同化している場合すらある。令和の虎でBlenderが批判されて悲しいみたいな反応はその典型例だろう。 アンリ・マティスは晩年病気で筆が握れなくなり、切り絵を始めた。それが彼の代表作になっているのだから、表現とか作家性みたいなものはもっと深いところにある。

ベートーヴェンにしろマティスにしろ「制約」の問題というのはとても大きな問題な気がする。直感に反するかもしれないが、できることが増えるほど強度が下がる可能性はある。現代社会はなんでもかんでもインプットできすぎるという、「学習中毒」に対する批判とも関連する。これは「可能性の絶望」の話と同じで、可能性空間を自ら収束させる操作を行わない限り、そこには無限のインプットという名の消費が起こるだけで、必然性による収束が起こらない。これが強度を欠く原因になりえるのではないか。