https://youtu.be/jmlvg5UWMb8?si=JkeOWXAV9Kb4xNeD
この作品は2022年公開の作品だが、こういう初期のStable Diffusionっぽい作品って「AIらしい」表現だな、と今になると思う。そう考えるともはや最近のAIは色々と進化した結果、結局既存の表現、要はフォトリアルかアニメ(2Dにしろ3Dにしろ)の補助要素としてしか見なされなくなっているように思える。新しい表現手法が結果的に先行する手法の模倣、焼き増し、補助、そういった類のものになってしまうのはどこか悲しい。ぼくは3DCGをやっているからそのあたりのフラストレーションは大きい。3DCGには3DCGらしい表現というものがもっとあっていいはずなのに、「CG臭さは消すものである」ということが暗黙の了解のようになっているのと同じ話だ。写真が新たな表現形態として登場した頃、写真は絵画の模倣を志向した作品が多かった。その中で「ストレートフォトグラフィ」と呼ばれる表現を確立し、写真は写真ならではの表現を作っていった。技術が進歩しても結局大事なのは根底に流れる思想だ。思想がなく単に技術を進歩させても、その先にあるのは新たな表現ではなく、既存の表現をいかに効率よく焼き増しするかということでしかない。携帯電話の進化の歴史を見ると、進化すればするほど便利になる一方、デザインはもはやただの板であって、昔のデザインの多様性に比べてつまらなくなっているのとか、サイバーパンクの、あれだけソフトウェアが進歩しているにも関わらずハードウェアはゴテゴテしたモニタ群だったりするのとも似たような話かもしれない。現代のデザインの流れがそのまま一直線に続けば、おそらく近未来のデザインは全てがただの板になるか、物質は排除されてAR的なものになるだろうが、余剰を完全に失った世界に美意識はあるのだろうか。
ぼくの中である程度結論が出ていることとして、いくらAIが「クオリティの高いもの」をボタン一発で出力できるようになったとしても、それが自分の作ったものでなければ(正確に言えば、関与の度合いが低ければ)それを価値あるものだと見なす事はないだろう。昔のポケモンにはいわゆるセレクトバグと言われる、一発でポケモンをレベル100にする裏技があったんだけど、あんなことをしても何の達成感も無いのと同じで、要は「自分で育てた」という事実そのものが大事なわけで、レベルが高いかどうかはどうでもいい。レベル100のバグポケモン6匹揃えて四天王倒して何がおもしろいのって話で、要は「愛着」の問題だ。こういうことをひたすら考え続けているのは、「ボタン一発であなたが作るものと同じようなものができるんだけど、あなたの存在価値あるの?」と問われた時の理論武装が必要だと思うからだ。市場の論理はすべてを効率化し最適化する方向に向かうだろうし、そういうことに対して契約書に明記するとか、プラットフォーム上で反対運動を行うといったような、瑣末な抵抗をしてもほとんど効果はないだろう。それくらい原理的な問題を突きつけられている。確かに食っていくことは大事なのかもしれないが、物を作るという行為をマーケットの中でしか位置づけられなくなってしまうとこれからの時代、そもそも作るという行為自体続けるのが苦しくなるだろう。それは常に「お前の存在価値あるの?」を問われ続ける世界だからだ。マーケットの軛から開放され創作は個人化する。勘違いしてほしくないのは、この理論武装は誰かを納得させるための理論武装ではなく、自分が納得するための理論武装だということだ。自分が自分の行為に疑いを向けたままだと何をするにも腰が重くなる。