「貧すれば鈍する」というが、人間は焦るとスタンスが保てなくなる。その典型例がお金にまつわる焦りだということだろう。自分が今まで大事にしていた価値観を全て投げうって、「いろいろ試してみるべきだよね」みたいな言い訳をしながらどんどんスタンスを崩していった結果、結局試したことは何にもならずただ方向性を見失ったよくわからない人になる。ぼくはハリウッドザコシショウが昔から好きで、あの芸風で何十年もブレずにやり続けているのは正気の沙汰じゃない。「あらびき団」を見ていた世代だからこそ、ハリウッドザコシショウにスポットが当たって売れっ子になった時は本当にうれしかった。自分の信じているものを何十年もひたすら貫き通すことの大切さを教えてくれたような気がする。
「クオリティの高いもの」といったときに人が真っ先に想像するのは多くの場合がリアリズムだと思う。要は「理性」と「言語」によってコントロールされた表現である。そういう点でいうと今はクオリティの高いモノのほうが作るのが簡単になるというよくわからない逆転現象が起こっているせいで、クオリティの高いものの方が供給過多である。そうなるともはや「愛着」みたいなことの方が大事になる。要は単にクオリティの高い何かより「自分で作った」事実そのものだったり、思い出のようなものと結びついているかどうかが大事になる。そうなると創作は完全に個人的なものに戻るわけだが、一般的に共有される「クオリティの高いもの」が供給過多に陥ったとき残された道は個人化しか無いような気がする。それと関連する話でもあるが、音楽においてノスタルジーというのは非常に重要な要素である。あの時、あの場面で聞いていたみたいな曲をその当時の感情を思い出しながら聴く。その感情というのは個人的なものなのだが、ごくまれに1つの世代が丸ごと感情を共有してしまうような曲というのもある。そういうものがいわゆる「平成ヒットソングメドレー」とかに載っているような曲なのだろう。
大きな物語が崩壊し小さな物語へというのがポストモダンのスローガン?のようなものだが、現代は物語の捏造の時代であるように思う。要は推し活とか恋リアのようなものは物語の捏造であって、Qアノン的なものとも一直線につながっている。要はそこにあるのが真実かどうかということすらどうでもよく、捏造された物語をどれくらいの熱量で「推せるか」ということが大事という価値観。これは「冷笑」みたいなバズワードとも関連していて、要はとにかくそこにあるものが真実かどうかなんてどうでもいいから熱狂しろ、そうじゃないやつは「冷笑主義者」っていう、まさにこういった構図を象徴するような言葉だと思う。ただ冷静に考えれば、物語の捏造なんて人類は宗教でやり続けてきたことであって、単に宗教や信仰に回帰しているだけとも言える。