知るということはおそろしいことだ。若い頃の根拠のない自信の正体とは要は何も知らないというだけのことなのだ。いろいろな痛みを知り、あらゆることを相対化できるからこそ様々なことを経験すると人は寛容になれる。それは良いことのように聞こえるし、実際半分はいいことでもある。だが寛容さと相対化、あらゆることに「根拠」を求めてしまうことこそが、ある意味老いのプロセスでもあるのだが、ぼくたちの生き方を狭めてしまうこともある。無知というのは非常に強力なエネルギーでもあるからだ。だからこそいろいろな経験をした上で、一度バカになってみるのもいいかもしれない。そうでなければ、例えば、ぼくたちは恋をしたりすることなどできないだろう。しあわせなだけの恋愛などないし、恋をすると人は確実に傷つく。傷つくのがわかっているのに新たな恋を求めるのはバカにならなければできないことだ。「反知性主義」ばかりを問題視するが、ぼくは「知性主義」にも大きな問題があると思う。コスパ至上主義や効率化の過剰な追求は、行き過ぎた知性主義だ。

似たような話だが、若い時は物を極力持たずに最低限で暮らす、みたいなミニマリズム的な発想にあこがれていたんだけど、年齢を重ねると、どちらかというと「何かを持っている自分」がどう変わるのか知りたい、という発想に変わっていったような気がする。めちゃくちゃしょうもない話、最近まで掃除機を持っていなかったんだけど、ちょっと良い掃除機を買うと床がピカピカになって気持ちいい、みたいな、そういうことを知れることが嬉しい。今は物をいかに減らすかじゃなくて、たくさん物を持っていても、きちんと整理・分類して使いこなす能力が大事な気もする。そうやってぼくたちは年を重ねるごとに捨てられないものが増えていくんだろう。


数年前某英語のコーチングスクールに通っていたことがある。個人的には3ヶ月でVERSANT20点くらい伸びて大成功だったんだけど、コーチングスクールのやっていることって毎日のラインと週一の面談、シャドーイングの添削くらいのもので、一見、多くの人が想像するようにAIでほとんど代替可能なように思われる。だけどぼくの考えはちょっと違って、こういうものは実はAIによって簡単に代替されて無くなることはないと思う。込み入った話になるが、ああいったものが提供しているサービスの本質は実は英語力の向上とは無関係なところにあるからだ。具体的には「人に応援されるとやる気が出る」ということと「高いお金を払ったからやるしかない」というコミットメント装置としての機能である。英語のコーチングスクールというのはとにかく高くて、3ヶ月で50万くらいする。上記のサービスから考えれば普通の感覚では高すぎるようにすら思える。だが「高いから信用できる」とか「高いから自分はいい買い物をした」と感じてしまうバイアスというのは人間の購買行動においてはよくある話で、こういうサービスはそういった人間の心理を利用しているわけだ。あと単純に、機械に応援されるより生身の人間に応援された方が人間はやる気が出る。バカみたいな話だけど、これは実際そうだと思う。