一つの仮定として、鑑賞者が何一つ真剣に見なくなる世界ができたら物を作る人間に存在意義はあるのか?モノづくりは単なる自己満足であるという意見もあるし、それは理想論だけど、どこかしらに鑑賞者の存在を意識せずにはいられない。ファスト映画や「誰も傷つかないお笑い」のようなものは象徴的だが、今の時代は作り手が鑑賞者への信頼を失っていると思う。信頼を失っているがゆえに一段突っ込んだ表現がしづらい。何か問題があればすぐ「炎上」するかもしれないという観点で多くの人が無意識にリスクヘッジしている。松重豊のインタビューでも最近のドラマに苦言を呈する場面があったが、ああいう現象も作り手が鑑賞者を信頼していないから起こることだ。エンタメはマーケットに適合することが正当化されやすいが、マーケットが余暇時間のほとんどショート動画のような現代のドラッグを見て過ごす人間で埋め尽くされた時、マーケットに適合することを正当化できるのか。つまりドラッグ中毒者の脳に最適化されたものを供給することが、「マーケットに適合して数をスケールできるから正しい」と言い続けることができるのか。アルゴリズムによって個別最適がおこなわれると思いきや、現代社会は数字のスケールによる暴力がむしろ悪化しているように思う。


生成AIはビジュアル表現をプロンプト、つまり言語によってコントロールするわけだけど、そうなると何か修正したいとき、「もっと大きく」「もっと明るく」のように書くしかなくなるが、そもそも何かを作るという行為は「もっと」とはどの程度なのか?という細かい積み重ねに核心がある。これが仕事においても伝達の祖語が起きるもっとも大きな要因でもある。「もっと明るい」とは人によって感覚値のようなものがあり、「明度を15%あげて」のように言語で指定することは難しいのが普通だ。言語によってビジュアル表現をコントロール可能であるというのは一般的な感覚から言っておかしいと思うのだが、あまりそういうことを気にしている人はいない。「そういうことを気にしない人たち」でマジョリティが構成されるのであればこんなことを考えてもおかしな奴だと思われるだけだろう。


文章だろうが音楽だろうが画像だろうが動画だろうが、インターネットはもはや情報の砂漠のようなもので、新しく何かを作ってもそもそも発見されること自体困難だろう。ただでさえ供給量が多いところに生成AIによるデータのごみのようなものまで紛れ込んできてしまった。グローバリズムがローカルに閉ざし、右翼政党が復権したように、誰もが自分の表現を発表し新たな創作の場を得るといったインターネットの夢のようなものも打ち砕かれつつある。


僕はインターネット上で自我を出すのが苦手だ。と言うより出していいタイプの人間では無いと思っている。要は「酔っ払って意味不明なことをツイートしちゃう側」の人間なのである。だがそうも言ってられないのかもしれない。メディアによるコミュニケーションが人材過多とAIによるデータのゴミで満たされた世界では、もはや作品そのもの以上にそのメタデータ、つまり「どういう人が作っているか」が重要になる、とういかそういうメタデータがなければもはや人間とbotを区別する術がない。ツイッターで群がってクソリプ飛ばしてる人たちは表面的にはbotにしか見えない。ぼくはネット上ではあえてbotの様に振る舞うことを意識してきたけど、変わる時が来ているのかもしれない。