ぼくは6月生まれなので梅雨の季節に生まれた。もちろん記憶なんてないけど、生まれた時も雨が降っていたような気がする。毎年誕生日が来るたび、誰にも祝われないことに無意味に罪悪感を覚える日が来たなと思う。数字がひとつ増えることにそれほど大した意味があるとも思えなくて、二十歳になった時も三十歳になったときもなんとも思わなかった。

思い返すと、ぼくは家族にすら誕生日を祝ってもらった記憶がほとんど無い。冷たい家族だとかなんとかって話とは少し違って、クリスマスだろうが正月だろうが記念日をみんなで祝うみたいな習慣の無い家だっただけだろう。そのせいか誕生日もクリスマスも正月も、何がそんなにめでたくて街がこんなに盛り上がっているのかよくわからない。クリスマスに恋人がいない人が、「リア充爆発しろ」とかなんとか悪態をつくノリがネットには昔からあるけど、それは「自分もその文化圏に参加したい(あるいは参加できるはずだった)」という未練や執着の裏返しだ。記念日を人と過ごし祝う文化で育っていない人間にとっては嫉妬の感情すら湧かない。嫉妬の感情は手の届く幸せにしか湧かないもので、最初から無いものに嫉妬のしようがない。同じ観点で言えば、そもそも家族という共同体に対して良い印象がないから、ぼくは結婚したいと思ったことがない。記念日をみんなで祝うような家庭に育った人は、家族という共同体に対して憧れ、そういうものに所属し続けることが当たり前であるという価値観を自然に持つことができるから、自然と「結婚したい」と思うのだろう。

メメント・モリという言葉があるが、生まれた日には逆に死について考えてみるのもおもしろいかもしれない。生きる意味がなんだとか、よく人は悩んだりするけど、「特に生きていたいとも思わないけど、特に死にたいとも思わない。」といつも思う。生に対しても死に対しても執着がないから、今自分の距離が一番近い生の側にただいるだけだという感覚。こういう考え方は悲観的に聞こえるかもしれないけど、背負うものが別にないから、ある意味一番楽観的で気楽な考え方だ。

ぼくは自分が歪んだ人間だと思うこともないわけではないけど、歪みとは正常な形が定義されているから存在するもので、人間は工業製品じゃないからそもそも歪みなんてものは定義できない。こういう考え方は相対主義的すぎるかもしれないけど、クリスマスの話と同じで、「正常」を定義しようとするから異常が生まれ、嫉妬が生まれるんだと思う。文化圏によってある程度何が「マトモな生き方」か定義されてしまうことは避けようがないけど、ぼくとしてはそういうものもひっくるめて特にどうでもいいかなと思ってる。家族で誕生日を祝わないことも、単にそういう変数が割り当てられた人生だというだけで、特段おかしなことだとも思わない。