僕はわりと思ったことを何でも言ってしまう人間なんだけど、(というより、そういう人間になってしまった)なぜかというと、昔は違和感を感じたり不義理を働いてくる人間を無言で切り捨てていて、それに対する反省があるからだ。今は不満に感じていることや違和感があれば、それを全部伝えたうえで、切れるなら切れればいいと思っている。自分に対して歯向かってきたり、言いなりにならない人間を必要としない人間というのは世の中にごまんといて、話し合うのすら無駄だと感じる気持ちは痛いほど経験したからわかるが、やはり黙って去るのはすべての分岐を無にしてしまうから良いことだとは思わない。心の中に「こいつなんかおかしくね」と思いながら、それでも薄ら笑いを浮かべて仲が良いふりをして接し続けることが誠実だとは思わない。
AIはルサンチマンを駆動する装置として使われているなぁという印象がある。例えば、こういったテクノロジーが出てきた最初の頃に「置き換わる職業」として真っ先に槍玉に挙げられていたのは士業だったはずだが、それがどの程度置き換わったのかも疑わしい。最近ではクリエイターが槍玉に挙げられているようだが、結局それも同じ現象で、ターゲットがスライドしただけにすぎない。士業は収入も高そうだし、ルサンチマンの対象となるのは理解できるが、クリエイターなんて基本的には社会不適合者だし、収入が高いのなんてごく一部だろうから、そういうものの対象になりそうな気がしない。だが、SNSの普及によって「何かを作る人」が何か特権階級のように見えているのだろうか。これは昔から思っていることだが、SNSをみんな当たり前のように使っているけど、そもそも普通に生きていて、日常に何か共有したくなるような出来事がそんなに起こるとは到底思えない。結局、SNSで何か投稿することができるのは「作り手」側だけであるということが、このルサンチマンに関係しているように思う。
SNSに臆せず自分の意見を投稿できる人はすごいなーと思う。というより、すごく人間を信頼しているなと思う。僕はSNSなんて、何かにつけて他人を中傷する人間しかいないと思っているので、意見を書くことそのものがすごく嫌だ。
そもそも「何かを作ろう」と思う動機の根本は、世の中に自分が見たいものが無いから自分で作ろう、ということだと思うのだが、世の中のクリエイターと呼ばれる人間の大半は、ひたすら既存の何かの焼き増しを作り続け、したり顔で「もう新しい発想なんてない。所詮すべては何かのコピーなのだ」などという開き直りを口にする。では、実際に全く新しい表現などというものがあるのかと問われれば、それはあり得ない。あらゆるものは何かから影響を受けているし、あらゆる芸術はそういったコンテキスト込みで楽しむものだ。たまに、コンテキストなど関係なく直感的に良いと思えるものだけが良いのだと言う、ある種反知性主義的なことを言う人がいるが、それはモノを見る楽しみを半減させている。だが、その影響というものが一直線ではいけない。さまざまなものから影響を受け、それがぐちゃぐちゃに混ざって、影響の出典がどこだかぼやけてきたくらいの状態を個性と呼ぶのだろう。焼き増しばかりだという印象を抱く作品は、結局出典元が一元的すぎるのだ。
インプットとアウトプットなんてことを言うけど、インプットなんてものは無限にできるわけで、そればっかりやっていてもしょうがないなとは常に思う。モノを作ることを上達させる唯一にして絶対の方法は、とにかく何も考えず手を動かすことだろう。
若い時って、物を極力持たずに最低限で暮らす、みたいなミニマリズム的な発想にあこがれていたんだけど、年齢を重ねると、どちらかというと「何かを持っている自分」がどう変わるのか知りたい、という発想に変わっていったような気がする。例えば、めちゃくちゃしょうもない話、最近まで掃除機を持っていなかったんだけど、ちょっと良い掃除機を買うと床がピカピカになって気持ちいい、みたいな、そういうことを知れることが嬉しい。今は、物をいかに減らすかじゃなくて、たくさん物を持っていても、きちんと整理・分類して使いこなす能力が大事な気もする。片づけというのを言い換えれば、「たくさんある情報を自分なりのルールに従って分類する」ことだと思うのだが、ミニマリズムっていうのは、結局処理能力が低いがゆえに、大量の情報を整理・分類できない人が陥る発想だと思っている。頭に入る情報を絞ることで効率よく処理をしようというのは、特に悪い発想とは思わないが、失うものも多い。