映画やゲーム、アニメのようなプロダクションに最適化された表現というのは、言ってみれば機械のパーツ、つまりネジのようなものであり、ある程度形式化を免れることができない。この性質こそが、ArtStation的なスタイルやアニメイラストがAIに蹂躙される原因なのではないかと思う。少し前に抗議活動が起こっていたようだが、他のポートフォリオサイトであのような現象が起こっているのは見たことがない。なぜあの界隈でAIがこれほど問題になったのかを考えることには価値があると思う。

確かにあのサイトに投稿されている作品は「クオリティ」は高い。だが正直言って、クリーチャー、ドラゴン、ゾンビ、ロボット等々、どこかで見たような同じようなものが羅列されているという印象は拭えない。AIによって、今まで当たり前のように「クオリティが高い」と思われていたものが一瞬で作れるようになったとき、「質」とは何かということを根本から考え直さなければならないのかもしれない。言い換えれば、「クオリティの高いものを作れる」ということ自体に、もはや価値がなくなるということでもある。

同じようにアニメの絵というのも、そもそも誰が描いても同じになるようにデザインされている。心情としてこうした意見に反発する気持ちはわかるが、あの産業の構造上、そうでなければ大人数での作画など不可能である。よって、そもそも大前提としてアニメの絵は記名性を確保するのが非常に難しいという背景がある。例えばソーシャルゲームのイラストなど、AIが出てくる前からとんでもなく買い叩かれていたわけで、誰が描いても同じようなものができるなら価格は限界まで下がる。つまりAIが登場しなくても、もともとかなり厳しいスタイルだったのだ。そうした事情を無視して、今になってすべてをAIのせいにしているのは違和感がある。これは映画のエキストラ問題にも通じる話だ。


クオリティの定義

これらの表現の特徴は、クオリティの定義が画一的であることだ。なぜなら前述したように彼らの創作は映画やゲームなど大規模なプロダクションのために作られることを前提としているからである。プロダクションでものを作る以上それは仕方のないことであり、属人的で安定しないスタイルを大人数で作り上げるのは無理がある。言い換えれば、極端なオリジナリティは足枷になる。原画の癖が強すぎたら動画を描くのが難しくなるようなものだ。こういったタイプの創作は、ある意味で「正解」が決まっているものを再生産し続けることにもなる。

リファレンスを集め、暗黙のデータベースを形成し、そこから要素を引き出して組み合わせ、平均値を取ることでクオリティを上げるという手法によって「クオリティ」の高いものの再生産が可能になる。しかしこういった振る舞いそのものが、画像を食って学習するAIの仕組みに酷似しているというのは皮肉だなと思う。個人的にはトレースはダメで、リファレンスのコピーは許されるという倫理観の基準もよくわからない。

ある仕事でディレクターから「クオリティを上げてほしい」というフィードバックをもらったことがある。クオリティなんてものは定義が曖昧で何をすればいいのかすごく混乱したのだが、どれだけ話しても具体的な話には一切ならず、暗黙知をわかっていなければ理解するのが難しいという印象を受けた。この出来事は僕にとってはいかに画一的な「クオリティ」という概念が蔓延しているかを示す良い例になった。彼からすれば、クオリティというのは世界にひとつしかないものなのだろう。生成系AIの出現によって、僕たちは「クオリティとは何か」を問い直す機会を与えられたように思う。もちろん僕もそこまで頭が固い人間でもないので、彼の意図はわからなくもない。クオリティというと、多かれ少なかれ「ディテールが充実していること」を意味するのだろう。だが僕にとってはそういう画一的な質の定義というのは窮屈で、小学校で「足が速いやつがモテる」みたいな話に近いものだ。

ディテールを足すというのは、ひたすら同じことを繰り返して労力をかけることで「1を100にしていく作業」である。だがこういったことこそが機械の最も得意とすることではないか。なぜなら機械は寝ることもないし、24時間働いて同じ作業を繰り返すことができるからだ。そういう点で言うとAIが最も得意とする表現はリアリズムであると考えている。リアリズムというのは「現実」という正解がひとつに決まっているものだし、本来絵画だろうがCGだろうが労力、時間をかけて仕上げていく表現だからだ。実際生成AIによって生成されるものはリアリズム一辺倒な印象がある。リアリズムというのは人々がわかりやすく「クオリティが高い」という印象を受けるものだからこそ、AIが作れるようになったことで衝撃を受けたのではないか。


アイディアについて

人数を集めれば集めるほど、さまざまなアイデアが出て没個性化を防げると思うかもしれない。だがそんな話は理想論でしかなく、人が増えれば増えるほどお互いの顔色を伺い始めるので最終的なアウトプットは「平均値」に収束していく。例えるなら、上流から流れてきた尖った石が流水によって研磨され、すべて丸く同じような形になってしまうようなものだ。どこかで見たことのあるようなロボットやクリーチャーは、この丸い石そのものなのである。大人数で話し合って出た結論は最終的には参加者全員の合意を得ること自体が目的化してしまい、アイデアそのものの問題とは何の関係もなくなる。

ハリウッド映画などでは「売れる脚本の書き方」がかなりシステマチックにテンプレート化されており、そうしたノウハウ本も多数存在する。正直、映画にしろゲームにしろドラマにしろ、あらゆるコンテンツは明らかに供給過多であり、そのせいでほとんどの作品がどこかで見たようなものの再生産になっている。そんなにたくさん新たなアイディアなど生まれるわけもないのだが、企業はコンテンツをひたすら供給し続けなければならないため似たようなものを再生産せざるを得なくなる。もしその「再生産」をAIが肩代わりしてくれるなら、それはそれで悪い話ではないと思う。


著作権と人権

AIにおいて著作権の話はたびたび問題になるが、この点でも分が悪いと思っている。そもそも人間だって同じようなものを再生産しているのだから、著作権がどこに帰属するかなんて証明するのがかなり難しい。たとえばサイバーパンク的なロボットのデザインを作ったとしても、同様のデザインは無数に存在する。そのため、自分が考案したと主張するのは無理筋だろう。唯一、そっくりそのまま転載された場合のみ主張が通るだろうが、AIは微妙に異なるものを出してくるため、それも困難だ。結局のところ、自分の作品が学習に使われたという明確な証拠でも突き止めない限り著作権侵害の証明は難しい。著作権だの人権だのという議論そのものが、本質から外れていると感じる。

似たようなものの再生産が、人間には許されてAIには許されないという理屈が、僕には理解できない。そこで「人権」や「尊厳」といった言葉を持ち出すのなら、それはそれで構わない。これは結局のところ、世界がどちらの方向に舵を切るかという思想の問題なのだ。すなわち、無駄だとわかっていても人間の尊厳のために無駄を受け入れるか、それとも無駄をすべて排除するかという話である。

今の社会は「無駄を排除できない」のではなく、「排除しない」のだ。もし本気でテクノロジーに任せて無駄な仕事をなくすことができるなら、とっくに失業者で溢れかえっているはずだ。それほどこの社会には「無駄な仕事」が多い。「ホワイトカラーの仕事はAIに奪われる」みたいな話は今に始まったことでなくずっと前から言っている人もいるが、果たしてどの程度ホワイトカラーの仕事は減ったのか疑問である。社会はテクノロジーの進歩を馬鹿正直に反映したりしない。失業者が増えれば社会がどれほど荒廃するかなど、歴史を見れば明らかだからだ。最近日本にはAIポピュリズム的な政治家が増えているが、そうした失業問題に対する現実的なフォローを真剣に考えているのか疑わしい。


仕事としての創作

ソフトウェアの使い方を覚えたりして、仕事になるという『スキル』に価値を見出す時代は、もう終わるのかもしれない。言うまでもなく、そのソフトウェアの使い方を一番よく知っているのは「そのソフトウェア自身」だからだ。もしソフトウェアが自動で動いて何かを作れるようになれば、マウスやキーボードなどのインターフェースで人間が介在して操作する必要はなくなる。スキルの多寡で競い合うなら、機械にはかなわないだけでなく、自分より若い世代にも敵わない。テクノロジーの進歩によって得られる情報量が違いすぎるからだ。最終的には「スキル」の外側でどれだけ物を考えているかが大事なのだ。

僕は以前から「CGだけを勉強している人の作るCGは全部同じでつまらない」と思っているのだが、それは彼らが「スキル」しか学んでいないからだ。「どこかで見たようなそれっぽいもの」は作れるが、それ以上の引き出しがない。所詮それは「専門学校的な知」でしかない。ArtStationのAI問題の本質はここにある。そもそもブレードランナーや攻殻機動隊、ピクサー、ILM的なものを何重にも焼き増しした表現で氾濫していた界隈が、AIによって自らの無個性さを露呈された瞬間に怒り出したとしてもあまり同情の余地はない。

技術には2種類あって、1つは言語や映像などによって直接的に伝達可能で、教えればすぐにできるようになるもの。ソフトウェアの使い方などはこちらになる。もう1つは直接的に伝達不可能で、訓練によってしか身につかないもの。運動や、画力のようなものはこちらだろう。前者は具体的で後者は抽象的な技術ともいえる。前者は「専門学校的な」技術である。専門学校は短期間の上、入試もなく、即戦力を社会に出す等の目的意識から抽象的なことを学ぶ時間が無い。これまでは具体的で「仕事に使える」技術が求められる社会だったが、そういった労働者としてのクリエイターこそ危機に立たされている。産業の歯車としてのクリエイターはもはや必要なくなるのかもしれない。

AIによって職業作家の大半が淘汰される未来が来るのであれば、それはそれで好ましいとすら思える。その時こそ何が創造的で何がそうでないのかはっきりするので目指すべき指針がわかりやすくなるはずだ。AIに対して人権のような概念を持ち出して批判していてもおそらくこの流れを食い止めることはできないだろう。例えば人を雇うのをやめてAIに任せたとしても、表に出さなければ問題にならない。つまり抗議できるレベルで可視化されているうちはまだいいが、不可視化され、気づかないうちに置き換わっているという可能性は十分にある。抗議できているうちが花で、最終的には静かに、誰も気づかないうちに置き換わっていくのかもしれない。


ただ僕は人間の仕事の大半がAIに置き換わるみたいな荒唐無稽なシンギュラリティ論を積極的に支持しているわけではない。前述したように技術が一足飛びに社会に実装されて社会変革が起きるとは到底思えないからだ。人間の面白いところは、形式化されているという点では人間が作ろうがAIが作ろうが同じなのに、AIが作っていると妙に反発する人が多いことである。つまり人間が時間をかけて労力をかけていれば表面的には形式化されている表現であっても許容される。逆に言えばこの部分を乗り越えない限りAIが社会を変えることなどないように思う。同じことをやっていても、人間でなければ嫌だという人が一定数いる。

またAIが進歩したところで、何かを作る権利は一切奪われないのだから生成AIに過剰反応するのもどうかと思う。音楽を作りたければ作ればいいし、絵を描きたければ描けばいい。単に「仕事としての創作」が減るだけの話だ。市場での価値の低下=死のように考える人があまりにも多い気がする。本来「創作=仕事」ではなかったはずではないか。

今となっては全くピンとこないかもしれないが、「ホワイトカラーはAIに代替されやすいが、クリエイターだけはAIに置き換わらないはずだ」という主張は昔からよくあって、昨今の状況を見てその予測は間違いであったという人がいるが、それは少しずれている。労働者としてのクリエイターの仕事もまた、エクセルの表を埋めるだけのブルシット・ジョブと本質的に全く変わらないというだけなのだ。表面上は何かを作っているように見せているのでそういった仕事はクリエイティブで特別なように見えるが、その実は前述したような同じようなものの再生産を行っているだけで何ひとつクリエイティブではなかったというだけのことだ。