知り合いのアニメーターがAIに関連するSNSの投稿を見て「世の中の人に絵描きがこんなに嫌われているとは思わなかった」といった趣旨のことを言っていたのがすごく頭に残っている。おそらく無断でAIにイラストを学習させたり、嫌がらせのようなことをしている人の投稿を見たのだろう。クリエイターのような存在はホワイトカラーと同様にある種の特権を享受していると思われているからそれに対して溜飲を下げるためにAIを利用する人間がいるのは僕も見たことがある。

AIに仕事を奪われるという議論も含め、一部のAIを過剰に礼賛する人々の裏側には鬱屈としたルサンチマンが隠れていると思う。つまり「みんなAIに仕事を奪われてグレートリセット」といったことを夢想しているわけだ。こういったルサンチマンに駆動される人々の存在が、怪しげなAIビジネスが跋扈する原因になっているように見える。情報商材の時代からインターネットは情弱をだますのが一番儲かるという構造は変わっていないし、昔と何も変わっていないことを自ら証明している人たちが「シンギュラリティ」などと言っているのは滑稽だと感じる。

こうした言説の実態は信仰のようなものでしかなく、AIについて語る偉そうな人たちは神官のようにも見える。テクノロジーと宗教的なものは対立するように見えて、実は親和性が高いのだと思う。『スノウ・クラッシュ』のような海外SFを読んでいると、科学的に発展した社会を描いていると同時に宗教的な要素が取り入れられている。おそらくそこには何らかの関係があるのだろう。進化したテクノロジーは最終的に神になるのかもしれないし、人々は神を望んでいるのかもしれない。

ドラマ『グランメゾン東京』の中で、こんなセリフがある。 「例えば、同じ卵とバターを使って、全く同じ調理工程でオムレツを作ったとするでしょ。でもどういうわけか、作った人間によって味が変わる。」

モノを作る行為には、こうした言語化や「レシピ化」の外にある感覚が存在する。どんなモノづくりでも工程を体系化してレシピにすることはできるし、誰にでもある程度同じものは作れる。しかし、なぜかその外側が常に存在する。「寿司は3カ月で握れるようになる」というのは正しいのかもしれないが、それはレシピ化や言語化の枠内の話でしかない。もちろん、レシピ化の枠内のクオリティで十分だと考える人たちも大勢いるだろうから需要はあるのだろうが、その外側が存在するという事実は変わらないと思う。なんでもかんでもプロンプト化、言語化できると考えるのはプログラマーならではの発想に見える。絵を描いたり楽器を弾いたりしたことがなさそうな人たちには理解できないこともある。

無論、AIが社会を大きく変えること自体は否定できない。しかし過剰な礼賛と過剰な嫌悪という極端な言説が目立つ。結局これは一般的な人間にとっては中身がブラックボックスになっている以上、プログラマーのご神託のようなものに従うしかなくなるからでもあるだろうし、ルサンチマンに駆動されて冷静さを失っているからでもあると思う。聖書の解釈をめぐって信者の間で紛争が絶えないのと同じことなのかもしれない。