ビジュアルを作ることに集中している期間は言葉が出てこなくなる。といっても喋れなくなるとかそういう話ではなくて、文章を書くことができなくなる。頭の切り替えがうまくできないのか、活字を読むのも億劫になる気がする。
最近「Tシャツが乾くまで」をようやく見始めた。どうもぼくは流行っているものを流行りが落ち着いてから見始める変な癖があって、みんなが盛り上がっている時に全くついていけないのに、数カ月後に謎の熱量で話し出してポカンとされることがある。
少し前のドラマだけど、「春のなんかさ、冬のなんかね」でもコインランドリーが出会いの場所だった。人はなぜ「コインランドリーから始まる恋」のような物語が好きなのだろう。
恋愛における偶然性に飢えているのかもしれない。マッチングアプリに象徴されるように、常に合理的で理由がある、「正しい恋愛」「正しい出会い」を人は求めるようになってしまい、非合理性の海へ飛び込むことをおそれるようになってしまった。
非合理性と偶然性の象徴の場としてのコインランドリー。そこで出会う人は、趣味も、身長も、年収も、年齢も、何もかもが事前にはわからない。
だがぼくは、恋愛における意思決定で「偶然」以上に強いものなど無いと思う。合理的で理由のある意思決定は、常に上位互換を追い求める欲望から逃れることができない。
アルゴリズムによって外在化した欲望は、「他人が欲しいものを欲しがる」競争に絡めとられる。内在的な欲望に向き合うのが怖いから、常に理由を求め、自分の欲望は自分の外部にあるものだというエクスキューズを欲しがる。だがそこにあるのはもう恋という形をしていないだろう。
人の本質とはどこにあるのだろうか。人は他人をわかりたがるけど、実際には他者に見せているのは一面でしかなく、本人ですら自分の全てををわかっていないのかもしれない。例えそれが恋愛関係であっても、夫婦関係であってもだ。
恋愛をすると人は他者を写し鏡にして自分を見ることになる。その自分がおそろしく醜いものだったとしても、知らないよりはマシだと思う。そう思わなければ、ぼくたちは非合理性の海へ飛び込むことができなくなってしまう。