ぼくの書く文章はいつ見返しても「人に読ませる気がない文章だな」と思うが、基本的にノウハウ的なもの以外の大半の文章は人に読んでもらおうと思って投稿しているわけでもない。では何故わざわざインターネットにアップするのか、という話なのだが、これは文章に限らずデジタルでの創作というのは「確定」が無いからかなと思う。いくらでもUndoできるし、元データが手元にある限り何度でもやり直すことができてしまう。わざわざ自分の書いた文章をネットにアップロードするのは、その時点で書いているもの、思考を確定させてこれ以上編集不可能にするという魚拓のような行為に近い。その思考が間違っていても偏っていても構わない。要は「今自分が何を考えていたか」その履歴を残しておきたいという気持ちから文章の投稿を始めた。とはいえ全く読んでもらえないのも寂しい気もするけど、しかしいくら人に読ませたいからといってnoteにありがちな改行だらけのあざとい文章にはしたくないんだよなぁ。
Xのタイムラインに「GPT-6 Astraで3D背景が自動で作れた」みたいな投稿がしきりに流れてくるのだが、それらを見てて「本当にそれ良いと思ってるの?」と思う。AIに関連するムーブメントはたいして価値がないものを、経済を回すために価値があるものだと見せかけて自分も他人もだまし続ける、サブプライムローンみたいなものなんじゃないかと思えてきた。だとすればこのムーブメントは歴史上のどこかの地点で大きなしっぺ返しを食らうのかもしれない。
造形というのは思想なんだよ。思想がなく単に漠然とクオリティの高いものを単発で作れたとしても、じゃあその次の作品、そのまたその次の作品はどうする?一貫した思想が無ければ常に作るものがブレ続ける。作家性というのはコンテキストだから、それはつまり作家性が生まれないということだ。ランダムな生成物というのは点で見てクオリティが高かったとしても、線で見れば一貫性が無く何を目的としたものかわからなくなる。
今Claudeにドキュメントやスライドを作らせたり、WEBページの改修をやらせたりしてるけど、結局これも、ドキュメントやスライドを作るプロ(そんな職業があるかは知らないけど)やプロのWEBデザイナーから見ればたいしたことは無いものなのだろう。3DCG だってこれと同じで、3DCGをやったことが無い人にとってみれば、Astraで作られるものは素晴らしいものに見えるのだろう。つまり基本的に素人にはその判断能力が無い。
ぼくはどういうWEBサイトが「いいWEBサイト」なのか判断する基準を持ち合わせていないし、そもそもWEBサイトやスライドは体裁さえ整っていればわりとどうでもいいかなーと思っているから、AIに作らせても問題ないと思える。
だがこの発想があらゆる分野に浸透して、素人で判断能力がなくてある程度作れてしまうとなれば、そもそも「プロ」が必要なくなってしまう。だがこれの行きつく先はコストだけが削減され、地獄のように質の低いもので埋め尽くされる社会だ。例え不合理に見えても、経済的にも時間的にもある程度のコストを払って維持しなければならないことがあるのかもしれない。