略奪という原罪

最近もはやCG、映像などの業界から足を洗って別の仕事をしようかなと考え始めてる。どう頑張って考えても、この業界はあまりにも将来性が無さすぎる。おそらくむこう10年でかなりの数の会社が無くなるし、働いてる人間も「専門技能があるにも関わらずまるでないかのような薄給」で働く羽目になるかもしれない。まあ、この点に関しては現状すでにそうなっているのかもしれないが。

少し前までは生成AIが現れても、人間はきちんと良し悪しを区別し、うまい共存の仕方を考えていくのだろうという理想を抱いていた。だけどAIスロップが社会を埋め尽くした時、人々はそれをあっさりと素晴らしいものだとして受け入れてしまった。そしてこのドミノ倒しはもう止まることは無い。

一度カニマカが本物のカニだと錯覚した人間に、本物のカニの美味しさを説いても時間の無駄だ。世界はシュミラークル、模造品で埋め尽くされ、人々はもはや何の為なのかもわからず量産されるゴミを燃やし続けながら資本主義の歯車を回す。

生成AIはテクノ封建制、デジタルプラットフォームによる略奪の新たな形式であり、略奪の対象はこれまで「クリエイター」と呼ばれもてはやされていた人たちになる。Google、Adobeなど各プラットフォームは生成AIの利用料金をサブスクの金額に盛り込み始めた。これらのツールがモノづくりの中核に侵入してくれば、クリエイターは歯車を回すためにこれらのツールが手放せなくなる。そうなれば「作れば作るほど搾取される」という構造ができあがる。

ブルーオーシャン、レッドオーシャンという言葉があるが、海自体がゴミで埋め立てられたらできることなど何もない。「NoAI」みたいなシュプレヒコールに対する苛立ちの正体は、もはや「人間が作るものとAIが作るもの、どちらが優れているか」とかそういう比較の次元の話じゃなくなっているにも関わらず、その現状に気づきもしない現状認識の甘さに対する苛立ちだ。これはある意味思想的な戦いでもある。シュプレヒコールでは何も変えられない。