断章
とにかく日本では自己主張することはデメリットしかない。集団の中でその総意とは異なる自分の意見を主張すると「厄介なヤツ」のレッテルを貼られて村八分に遭う。よって戦略的に空気を読むことが最適解となり空気支配社会ができあがる。そういう戦略が最適解になる社会でリスクを犯して自己主張をしようとする人間は自然と減っていくものだ。異物に対する恐怖感というのがこの社会では根強くある。異なる意見を取り入れて消化しようという機能そのものが欠落しているので、異物は徹底して排除するという発想にしかならない。結局こういうことの積み重ねが変わらない社会、失われた30年を生み出したのかもしれない。
人間は深い絶望の中にいると、結局きれいごと言うくらいしかやることが無くなる。「きれいごとなんて言ってないで現実を見ろ」という主張は現実を見れば具体的な解決策が見いだせる時だけ有効なのであって、現実が絶望でしかない時およそ実現不可能なきれいごとを言って気を紛らわせるしかなくなるのだ。
自分が子どもの頃には体罰はすでに無くなっていたと思うけど、個人的には別にあってもよかった。当たり前だけど体罰がないと子どもに対して大人が「言葉で」叱る必要が出てくる。しかし大人が大人の言葉で子どもに対して叱るとき、教師全員が適切な言葉を選択するだけの知性を持ち合わせているわけでもなく、時として陰湿になる。それは案外深い心の傷になるのであって、それならビンタ一発食らっておいた方がシンプルだしまっすぐ成長できるような気がしたのだ。
ノスタルジーに浸ることに罪悪感がある。「あの頃は楽しかった」と思えば思うほど同時に今の自分はつまらないのか?と問いかけることになる。それは今の自分という存在の否定だ。今の自分を否定するが、あの頃に戻ることはできない。存在が宙に浮くような気持ちになる。
がんばって作れば良いものになる、時間をかければ良いものになるということそれ自体が一種の思い込み、願望なのである。
馴れ合うことによって補正がかかった評価というのは、到底維持することができない。永久に馴れ合いの中にいるためにおべっかをつかい続ける必要があるからだ。歴史に残るものというのはそういうものではない。後世の人間と馴れ合うことはできないからだ。
僕たちはだれかと話したいと思ったとき誰かと話す。しかし、僕たちが誰かと話したいと思っているということを見分ける装置はない。結局僕たちは誰かを求めたいたのだということを手遅れになってからしか気づけない。心に処方箋は無い。
鳥や昆虫は哺乳類と違う進化の過程をたどってきたためカラフルな見た目をしている。鳥は4色の色覚を持っている。
写真の場合はスタジオ撮影を除いては自ら被写体を動かすことはできない。なので自分が動いてしっくりくる構図を探すしかないのだが、CGはどちらかというとこの考え方に近い。オブジェクトをつくり、カメラを動かしながら良いアングルを探す。イラストと同じようにスケッチで最初からアングルを固定してしまうと、自らの頭の中にある以上のものは思いつかない。
何かが「良い」、何かが「悪い」となったら良いか悪いかの二元論でしか議論ができない世の中だ。結論ありきで結論を補強するためのロジックを無理やり作ろうとするので話が通じなくなる。本来物事はもっと複雑なはずだったのだが。